1月9日(土) 04:53 am 美坂香里・自室
春―――日差しが温かい。
昼休みにもなると、校舎の裏庭はこの季節の到来を待ちわびていたかのように、にわかに活気づく。
他愛ない話をしながらお弁当を広げる生徒達。季節のせいだろうか、その喧騒さえ不思議と心地よく
感じてしまう。
「お姉ちゃん、お待たせっ♪」
振り向いた先には、柔らかな光を受けて無邪気に笑う少女―――栞。
わたしが待っていた、大好きな妹。
「遅いわ」
わたしは大きくため息をつき、わざと不機嫌そうな顔をする。
「だってー………さっきの授業、谷崎先生だよ?」
拗ねたような口調で、栞は精一杯の抗議を試みる。
谷崎先生は、チャイムが鳴っても区切りがつかないと授業が終わらない、英語の担当教師。この学
校で、それを知らない生徒は居ない。
「知ってるわ。待たされたから、そのまま事実を言ってみただけよ」
「お姉ちゃん………わざと?」
遠くを見つめたまま、わたしは冷たく返す。
「嘘を言った覚えはないわよ?」
「えーと………ごめんなさい」
………これ以上遊ぶのはやめておこう、後が怖い。
「まあ、座りなさいよ、せっかく取っといた場所が無駄になるわ」
「うんっ」
わたしの言葉で、困っていた栞の表情がほっと緩み、満面の笑みに変わる。
「遅れた分休み時間減ったから、5分で食べるわよ」
「ええっ?」
「全部冗談よ」
きょとんとして目を丸くする栞に、わたしは悪戯っぽく笑いかけた。
≪夢―――? そう、これは………夢だ≫
「ね、この卵焼き、取りかえっこしようよ」
そう言って栞は、勝手に卵焼きを交換する。
「取りかえっこって、それ、母さんの作った同じ卵焼きでしょ。何が楽しいのよ………」
「いいの、取りかえっこすることに意味があるんだから」
「変な子………」
口ではあきれながらも、目は笑っているのが自分でもわかる。
「だって私、お姉ちゃんの妹だから」
「それ、どういう意味? 詳しく聞きたいわね」
即座に非難の視線を送り、さっと手の甲を構える。
「あははっ」
身構えたままの姿勢で、栞は芝生の上を後ずさりした。
他愛ない日常。
わたし達姉妹にとっては、それが何でもないことでも楽しかった。
≪―――違う。こんな子は知らない≫
「………お姉ちゃん?」
≪知らないっ!!≫
ヒュウッ
突然、この季節には似合わない、冷たい風が吹いた。
え………?
風が通り過ぎると、さっきまでの喧騒が嘘のように消え、裏庭は寂しい雪景色に姿を変えていた。
「けほっ、けほっ………」
雪が積もった芝生の上で、突然栞は胸を押さえ、苦しそうに咳き込み出した。
「どうしたの?! 栞っ!!」
慌てて栞のもとへ駆け出す。でも、その距離は意に反してなかなか縮まらない。
「お姉ちゃん、ごめんね……約束守れそうに………ないよ」
苦痛に顔を歪めながら、それでも栞は必死に笑おうとしていた。
「栞っ!!」
咳が止まらない。
「ばいばい、お姉ちゃん」
栞の頬を、一筋の涙が伝う。
わたしはその言葉を否定するように、何度も首を横に振った。
「駄目………まだ駄目っ!!」
手が届くと思った瞬間、栞はこの世界から音も無く消えた。
わたし一人を残して。
「いやああああああっ!!」
夢の中で叫ぶと同時にわたしは目を覚まし、上半身を勢いよく起こしていた。
漫画なんかの『ガバッ』と言う起き方が、そのままわたしに当てはまった。
「はあっ、はあっ………」
喉がカラカラで、息が苦しい。
涙か汗か判らなくなった雫が幾つも頬を伝い、パジャマに吸い込まれて消える。
この夢を見るのは何度目だろう―――
夢だなんて気付かないほど、簡単に叶いそうなちっぽけな夢。でも、それはあの日、決して叶わな
い夢に姿を変えた。今のわたしにとって、その夢を見ることは、悪夢と同じだった。
わたしは弱いから、あの子の現実を受け入れる勇気はない。
だから、あの子から目をそむけることで、悲しみから逃げ出す道を選んだ。
わたしには妹なんて居ない。最初から居ないなら、居なくなったって悲しみを感じることなんて無い。
忘れてしまえばいい。
≪………忘れるって、誰を?≫
永遠に答えの出ない問いかけを、あの日からずっと繰り返している。
5時前―――この季節の外はまだ暗い。
『明けない夜は無い』。ありがちなその言葉を、誰が最初に言ったのかは知らない。でも、あの子は
夜が明けるたびに、闇へ一歩、また一歩近づいて行ってしまう。
その歩みは、誰にも止められない………『奇跡』でも起きない限りは。
溢れ出してしまいそうな感情を押さえつけるように、わたしは腕に突き立てた爪に、一層力を込めた。